オカルト波ℙ

浅はかな妄想探訪記

      浅はかな妄想探訪記

ユルス。

人の寿命が今の感覚だとして、人生の半分は自分ひとりで生きてきたので、半分過ぎそうになった頃、人と向き合って生きるっていうのもやってみようかなと、挑戦しているところ。だいぶ慣れてきた。

今日の目次

まえおき

とはいえ、そのパートナー(仕事)というのはかなり荒くれ者でめんどーξ。でも、なんで一緒にやっているかというと、リスペクトしてるから。

まぁまぁ、大変。普通に。でも、その才能を信じている。仕事としての成果物のクオリティは高い。何も問題ない。

んで、σ(゚∀゚ )オレの中ではそれだけなんだけど、その関係性の中ではそりゃ色々ある。

おどりゃー(# ゚Д゚)となるときもある。なんだそれ、まじかそれ、おれかそれ?みたいな。でもふと思った。

こういう我儘と、因果応報と。

最近良く思う、てか実感やばいのが、因果応報で、自分がしたことって、必ず返ってくる。この法則はぜったいある。じゃあ、こうやってクソ我儘放題って何処かにかえるのかと。こんなことして許してくれるのは、おかーちゃんだけだぞと。

無償の愛とか許すとか

んで、結局、母は許す、無償の愛というやつで。許すからそこに因果応報は発生しない。それで、許されると、学ばないから同じことをする。人に。そうすると、人は許さない。だから、そこにバチバチが発生する。

許すっていうのは

人は学ばないといけないから、簡単に許してはいけないとも言える。しかし、許すということも大切。なぜなら、一つ許せば、ある意味、自分の因果応報も止めることができるから。因果応報の消化されない部分がカルマになる。自分のカルマを解消するなら、人を許すことだ。一つ許せば、この連鎖がひとつ止まる。止めるのはこのたった一つであっても、その効果はとても大きい。

たとえば

先日TOLAND VLOGで日本人一人が覚醒すると1000人が救われる、みたいな話してた。これがどうこうというのではないのだが、ひとつ許すことで解消されるカルマは自分のものだけではなく、多くの人に影響するのだと、それは人を救うことなんだ(だろうな)と思った。

それで、多分その偉大な方は罪を背負ってそうされることを受け入れたのじゃないかと思いを巡らせてみた。

まとめ

だから、許すっていうことは、どういうことかというと、自分がある意味犠牲になることで、ひいてはそれが多くの人を救う行為になるということで、慈善事業なわけです。許してあげましょう、と。

パートナー(仕事)も、σ(゚∀゚ )オレにそんなわがまま放題すると、後でこんな気づきなのか蘊蓄なのかをこんこんと説教されるので、ある意味σ(゚∀゚ )オレはここで解消してるのかもしれないし、許しているっていうほど無償でもなかったりするわけだけど。人生学びかなと。

まあ、日常の自分が受けたことに対する小さな出来事は許すでいいのかなと。一日一善。