首都圏に長く居て、自分の育った地方の環境と比べると、思いもしないようないろんな人と触れ合ってきたと思っていたんだけど、意外と同じレイヤーに属する人たちとしか出会っていなかったことに、出戻り的に地方に住んでみて気づいたこと。
今日の目次;
色彩豊かな人間模様
首都圏にいる間、冒頭のように考えていた。企業に居たり、バイトしたり、派遣したり、ぷーになったり。いろんな業種に転職したり、さまざまな業界の職種やバイトを経験して、なかなかお目にかかれない方も含め、多種多様な方々とお会いしてきた、と、思っていた。んだがしかし。東京にいる頃より、こちら(地方)で聞く世間話の彩りが半端なく原色に近い色彩で(褒めてんのか下げてんのか🤭)、あんなに多くの方々と触れ合っていた頃に聞いたこともないような類のある意味衝撃的な話が日常的に多くて。これはある種、とっても新鮮な驚きだった。もうだいぶ慣れたけど。
見えないレイヤー
それで、真摯に思った。ああ、σ(゚∀゚ )オレはそれこそ色彩豊かな様々な人々とお会いし、出会ってきたと思っていたが、確かに出会った人数や職種の幅も広いかもしれないけれど、自分が理解できる範囲、同じ認識の人たちに常に触れ合っていたんだと。結局のところ、そういう同じ認識の範疇で行くさき(職・遊)を選択をしていたということなんだなと。東京は人がすんごく多いので、職業もたくさんあるし、趣味や娯楽を自分で選択する余地もある。すんごくたくさんあるから、自然と綺麗に見えないレイヤーができてるんだなと。
そのレイヤーを作っている属性っていうのは認識といった大まかなその人の考え方をつくっている、行動とか、収入とか、生活感とか、趣味とか主義主張とかさまざまなもの。
レイヤーのない世界
地方は圧倒的に人数が少ない。だから、レイヤーがない。というか分けるほどの層にならない。だから、認識が様々な人々が日常的に深く接触を持つ。悪いことばかりではないとはいえ。色々起こる、ときにビビる。
でもこれ、oreは子供いないから経験ないけど、ママ友もそうだって言ってたなぁ。信じられない人がいるって。まあ、それが、認識の違いというやつかな、ざっくり。
ボーダーレス世界の防衛策
このボーダレスの世界で自己防衛するには「関わらない」ということで人との距離をとって自己防衛する(しかない)。だから、都会の人は冷たいとか言うことの根源はここだと思う。地方都市も同じ。街型社会と農村社会の違い。ママを経験した友人はこれと似たような対応をとるようになる。かといって関わらないわけにもいかないから「あたりさわりない」対応になる。深いところにある自分の気持ちを置き去りにしているわけではないけれど、(仕方ないよね)という箱にそっとしまって納めている。昔はもっと熱かったのにな、と、よく思う。こういう時、σ(゚∀゚ )オレは置いていかれた感じがしてちょっと寂しい。
人間味とか人間臭さとか
てなわけで、そういう見えないレイヤーの存在を地方に戻って実感した次第。そしてある意味「関わらない」ではいられない社会システムのoreの田舎の農村部の人たちのほうが、人というものをよく知っている(理解している)なと思ったことがある、というか、教えられたことがある。なぜこの少人数のコミュニティで、そんなに深く人を理解できるんだろう?と。人のタイプでも数でもない何か?
田舎の温かさとは何か?
ふと思ったんだけど。一般的に田舎の人は温かい(優しい)とよく言われるけど、それは「人と関わる」ことから逃げない生活を送っているからで、そこにふと街の人が訪れると、その距離感に温かさ(優しさ)を感じるんじゃないだろうか?
これも、細かく言えば人それぞれでさまざまなわけだけど。本当は人と関わって温もりとか優しさを感じたい、それが人間なんじゃないかなぁ。だけど、色々なものが邪魔して関わらない方が安全になってしまった、のかなぁ。なが~い歴史文化の中で。
反省とまとめ
世界は広いっていうのに、結局のところ自分の認識できる範囲でしか行動していなかったのかと改めて認識した次第。これじゃー、世の中を知ったようなこと言えないよなーと猛省しつつ🈡